「記憶力がいいなんて、良いことじゃないの。トランプの神経衰弱とか強そうだし」 「強かったです」紙野結花の声が強くなってしまったのは、実感がこもっていたからだ。子供のころは無邪気に、トランプのカードをひっくり返し、「当たった」「また当たった」「どうしてみんな外れるの?」と優越感を覚えて気分が良かった。が、だんだんと他の人たちは自分ほど物事を記憶していないことを知るようになり、それと同時に、「忘れる」能力がいかに必要かに気づくことになった。 嫌なことなんて忘れればいいじゃないの。誰かが言えば、紙野結花が口にする答えは決まっている。 忘れるなんて、どうやって? 「どんなこともずっと、覚えているんです。何でもかんでも。見たものも聞いたことも。ぼんやり眺めている時はまだマシなんですけど、一回意識すると」 「記憶に刻まれちゃうわけ?」 紙野結花は強くうなずいた。「まさに、刻まれちゃう、という表現がぴったりです。こすっても、洗っても消えなくて」
「かちゃかちゃ仕事?」 「ああ、ほら、キーボードをかちゃかちゃやる仕事だから。インターネット上の情報を操作するの」 「ハッキングですか」紙野結花はそう言いかけたが、ココが途中で止めた。「その呼び方は、ちょっと恥ずかしいよ。わたしみたいなおばちゃんには 恰好 良すぎちゃって。とにかく、デジタルデータって簡単に奪われちゃうし、改変されちゃう。手書きのほうがよっぽど安全、という時代になってくるよね。読みにくい下手な字のほうが。で、紙野ちゃん、パスワードは頭の中なの?」
「人に幸運と不運を配る誰かだろうな」兜は自分で口にしてから、くだらないことを言ってしまった、と顔をしかめた。「月に 叢雲、花に風」 「それはいったい」 「月が 綺麗 だな、と思っていると雲がかかってくるし、桜を楽しんでいれば風がそれを飛ばす。ようするに、好事魔多しと同じ意味だ。天道虫、君の場合は、いつも雲がかかっていて、いつも風が吹いてる。そうだろ?」「まさに」 「考え方は二つある。今は駄目でも、いつかは、美しい月や桜が現われると信じて、それを楽しみにするか、もしくは、雲と風も悪くない、と思うか」
インターネットミーム
「資本主義だよ、たぶん」 「え」予想もしていなかった言葉が返ってきたからか、マクラがきょとんとした。 「人間って、他人よりも上位に行くために頑張る生き物だと思うんだよね。それを利用しているというか、助長しているのが、資本主義だよ。おしゃれな服も、立派な家も、うっとりされる外見とか、背の高さ、胸の大きさ、とにかく優越感と劣等感のための商品とかサービスばかりでしょ。だから、『恋人がいないなんて!』とからかわれちゃうのも、もとを辿れば、資本主義が目を光らせてるせいかも。あいつを 急き立てて、早く、金を使わせないと、って」
「前にね、お寺の住職が教えてくれたんだ。世の中に運とか不運とかあるけれど」 「不運のほうしかないかと思っていた」 「幸運をつかむのは大変。ただ、失うのは簡単。恩知らずになればいい。人から受けた恩を忘れちゃうような人間は、運から見放されるらしい」
「人の裏表なんて、本当に分からないんだよね」ココはさらに続けた。「たとえば、ある男が可愛い猫ちゃんの写真を撮っていたの。何度もシャッターを押して。そこだけ見れば、猫好きのいい人に見えるでしょ」 「違うんですか?」 「近づいて話を聞いたら、目を輝かせて言うわけ。『フラッシュ 焚いたら、目が 潰れたりしないのかな』って」
「おばちゃん、優秀だけれどね」ヘイアンは画面の中でタブレット端末を持つココを見ながら、同情を覚える。「この状況では、あまり役に立たないかも」 現代社会では、情報戦が繰り広げられ、情報操作やフェイクニュースにより、他者より優位に立つことができる。そういった意味で、ココの持つ技術はさまざまな場面で効力を発揮できるが、いざ、現実に敵と向き合った場合には、身体的な争いでしか決着がつかない。高度なハッキング技術があろうと、殴られたり、手足を縛られたりしたら、意味がない。
「池尾さん、これからの若い世代のために国の仕組みを変えていくのは本当に大変ですよ」 「実感こもっていますね」 蓬長官は少年の笑みを浮かべる。「理由はシンプルです」 「何でしょう」 「誰だって、損をしたくないからです」 池尾は自分の表情が緩むのが分かった。それはそうでしょうね、と言いたくなった。 「若い人間もいつか高齢者になります。ということは、高齢者が損をする仕組みを作れば、自分もいつかは損をすることになる。長生きできれば。それに比べて、若返ることは絶対にないんですから、若者が苦労するルールを作る分には、自分は絶対に安全圏です。誰だって、自分が損することには賛成したくないでしょう」
「天道虫は幸福の虫、と聞いたことがあります」 「お天道様に向かって、飛ぶからね。七つの星があるし」そのあたりの話を耳にすることは多かった。自分の不運と重ね合わせられた皮肉にしか思えず、うんざりすることも多い。「七というのは不思議な数字だよ」 「え」 「一週間は七日だし、七福神もいれば、七つの海という言い方もある。G7もあれば、七不思議とも言う」 「ラッキーセブンも」紙野結花はそこで、記憶の場面を 反芻 しているのか、一瞬ではあるが遠くを見る顔になった。 「俺が数字の七だったら、荷が重くて耐えられないだろうね」
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