今を生きているのはわたしたちなのに、そのわたしたちすらも時代が置いていこうとしている。すごく賢くて進歩した人たちが掲げる 綺麗 で正しい旗に、実のところ大半の人がついていけていなくて、無理に追いつこうとして転ぶ人が続出している。それが昨日のわたしたちだ。
結婚しても共働きはしかたないと思うけれど、みんながみんなやり 甲斐 のある高収入の仕事に就けるわけではない。そもそも仕事に向いていない人もいる。すべての夫婦が家事を完全分担できるわけでもない。外注に出せるほどお金があるわけでもない。この人たちのように。
自由に生きられるのは、人がひとり暮らしていくために必要な 枷 から解き放たれているからだ。家賃や光熱費や食費という生きるために最低限必要な金銭を、自分のやりたいことに使えるからだ。それに値する金額を家に入れているとしても、生活にかかる手間や名前のない家事から逃れているからだ。
幸運にも親ガチャに勝った彼女と、地方から上京して彼女が逃れているものを背負いながら日々を生きているわたしを、『わたしたち世代』という言葉で 括るのは無理がある。他者の苦労に便乗して世代代表のような顔をされるのは不快だ。
観察しているのは自分だけと思うことが傲慢だ。自分が考えることは他の人も考えている。他人は馬鹿じゃない。
友人や同僚のなにげない一言、テレビドラマのワンシーン、ニュース、SNS、悪気がないゆえ防ぎようもないなにかが、日常をうっすら覆う埃のようにわたしに積もっていた。
なにが「じゃあ」なのかはわからない。子供を産まないなら、それに値するなにかを手に入れなくてはいけない、という社会にうっすらとはびこる圧。女性の権利が尊重されるようになった分、なにも持っていない女、あるいはなにも持たないようにしている女に課される心理的負担は大きくなった。
ここまで生きてわかったことは、人生は永遠に完成などしないという事実だ。
くだらない理由で足を引っ張られないために、能力を過小評価されないために、正当な報酬を得るために、女は現場でどう振る舞うべきなのか、綺麗事ではない実戦を知っている目だった。
とはいえ古き良きものはいつだって新しい良きものに取って代わられる運命だし、わたしたちもそうしてきた。そして今までの場所から追い出されたってどうってことはないのだ。わたしたちにはわたしたちのまた別の場所や愉しみがある。
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