いわゆるサバルタン、すなわち自ら声を上げにくい存在であるそうした人たちを守るためには、したがって当事者以外の人々も含めて、広範な人々が声を上げていく必要がある。そこで形作られていったのが、とりわけアイデンティティ・ポリティクスにフォーカスした近年のリベラル派の世論だった。 とくに二〇〇〇年代のジェンダー・バックラッシュやヘイトスピーチの動きを経て二〇一〇年代になると、 SNS の普及とともに反差別運動が盛り上がりを見せていく。レイシズムに対抗するためのカウンター運動や、セクシズムに対抗するためのフェミニズム運動などを通じて世論が喚起され、リベラル派の新たな陣営が形作られていった。 そうした動きを率いていったのは一部のアクティビストのほか、とくにジャーナリスト、言論人、学者などの知識人であり、その活動の場であるマスメディアだった。彼らは世論を牽引しながら女性や外国人などのマイノリティと連帯し、「明白な弱者」を守るためのキャンペーンを展開していく。
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当時、コロナ禍という巨大なリスクに直面するなかで人々は自らのもろさを思い知らされ、その弱者性を突き付けられていたのだろう。そうしたなかで飲食店は、いわばそれをシンボリックに体現している存在として、まず人々の同情を呼ぶことになった。 しかしそうした存在が支援の対象として社会的に公認され、制度的に救済されてしまうと、今度は人々の中で自らの「救われなさ」が浮き立って見えてくる。自らが救おうとしていた存在が救われてしまったことで、逆に自らが救われないことを見せつけられた人々は、飲食店を目の敵 にし、そこに 憤懣 をぶつけるようになる。 その際、人々は飲食店を叩きながら、一方で自らがいかにつらいかを訴え合った。「自分だってつらい」という訴えは「自分のほうがつらい」という訴えとなり、さらに「自分のほうがもっと」という訴えとなる。このようにそこでは「弱者叩き」の背後で、自らの「弱さ」を競い合うという「弱者争い」が繰り広げられていた。
社会的に公認された「明白な弱者」だけが「特別扱い」されるのは不公平だとして、「曖昧な弱者」が憤懣を抱き、「明白な弱者」に敵意を向ける。その結果、「弱者叩き」が繰り広げられ、本来は支援の対象であるはずの「明白な弱者」が誹謗の対象とされてしまう。しかし「曖昧な弱者」には悪いことをしているという意識はない。なぜなら「自分だってつらい」のだし、さらには「自分のほうがつらい」のだから。そのことを言い立てるための「弱者争い」が同時に繰り広げられ、それが「弱者叩き」を正当化する根拠となる。 このとき繰り広げられていたのはこうした動きだったと言えるだろう。 ただしそれは、コロナ禍という特殊な状況に固有のものだったわけではない。それ以前の時期にもしばしば見られ、それ以後はより頻繁に見られるようになったものだ。
元来は生活保護にしても各種の給付金にしても、あるいは女性差別是正のためのいわゆるポジティブアクションなどにしても、「明白な弱者」への「救済措置」となるものだ。しかし「曖昧な弱者」はそれを「優遇措置」として、さらには「特権」として読み替えてしまう。そのためそれらに守られた「明白な弱者」は、もはや「真の弱者」ではなく、「偽の弱者」にすぎないということになる。 一方で何の配慮も講じられない「曖昧な弱者」は、それゆえに「真の弱者」であり、だからこそ「自分のほうがつらい」ということになる。そうしたことから「偽の弱者」の化けの皮を剝ぎ、その「特権」を奪い取ることが、「真の弱者」としての彼らにとっての正義となる。その結果、「明白な弱者」への敵意が正当化され、攻撃が加速されることになる。
彼は自らを「プログラミングというスキルを持つ実業家」だと規定している。そうした観点からすると、「パクる・逃げる・丸投げする」ことは単なる「サボり方」ではなく、むしろ有効な「問題解決の技術」だということになる。プログラマーや実業家からすれば、他者の優れたソースコードやビジネスモデルを真似ること、効率の悪いプロジェクトから撤退すること、開発や運営をアウトソーシングすることなどは当然のことだからだ(文献 3、 4)。
そうした状況になっているのは、「プログラミングを身につけることで副産物的に得られ」る能力がさまざまな領域で役立つからだという。 そうした能力とは、「論理的思考力、創造性、問題解決能力」などだが、より具体的には、「情報整理術、 俯瞰 で物事を見る目、相手に合わせて指示するやり方、物事を効率化する方法、数値化する力、優先順位を見極めること、仮説を立てる癖、論破力、シミュレーション力、仕事を熟練させる方法、アイデアを形にする能力、模倣するショートカット術」などだという(文献 10)。 これらの能力を駆使し、いわば「プログラミング思考」に基づいて生き方や考え方を改善するよう勧めることが、彼の提言の眼目となっていると言えるだろう。いいかえればそれは、「プログラマーとして世界を見る」という態度を指南することだ。 そこでは世界を、いわばデータとアルゴリズムから成り立つものとして見ることが目指される。そのためデータとして数値化された事実性と、アルゴリズムとして図式化された論理性がとりわけ重視される。その結果、それらに準拠せずに行われる議論は、「それってあなたの感想ですよね」などと「論破」されてしまう。
ヘゲモニー
ここであらためて考えてみよう。「日本の将来は暗い」にもかかわらずなぜひろゆきは、「あなたの未来は明るい」と言えるのだろうか。通常の考え方では日本の未来が暗ければ、そこに住む人々の未来も暗くなるはずだ。しかし彼はそう考えない。 彼によればこれまでの日本は、工場のラインに見られるような「横並び」の体制のもとで、「みんなでトクせざるをえない」という構造を大事にしてきた。しかし昨今ではとくに IT 産業に見られるように、「ひとりで稼ぎ」「ひとりで利益を受け取る」というビジネスモデルが増えているため、「ほかの人にも分配する必要がなく」なった。その結果、「みんなのことを気にせず、自分だけがトクする」ことが可能になったという。 だからこそ「日本社会が「オワコン化」しても大丈夫」だと彼は断じる。「国の幸福と、個人の幸福とはまったく無関係」なのだから(文献 1)。 ここに見られるのは、いわゆるネオリベラリズム(新自由主義)、もしくはリバタリアニズム(自由至上主義) に特有の考え方だと言えるだろう。公的なものを信任せず、自己責任に基づく市場競争を通じて自己利益の最大化のみを追求しようとする立場だ。
顚倒
ひろゆきのこうした振る舞い方は、弱者の味方をして権威に反発することで喝采を得ようとするという点で、多分にポピュリズム的な性格を持つものだ。しかもリベラル派のマスメディアや知識人など、とりわけ知的権威と見なされている立場に強く反発するという点で、ポピュリズムに特有の、反知性主義的な傾向を持つものでもあると言えるだろう。










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