未明の砦 (角川文庫)

未明の砦 (角川文庫)

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鈴木陽介

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「そうねぇ」と、秋山が嘆かわしげに頭を横に振った。「他人を知る暇がないっていうか、それどころじゃないっていうか」  実際、工場の組み立てラインでは常にタクトタイムに追われて、まともに人の顔を見る余裕すらない。タクトタイムとは、一日の実質作業時間を一日に必要な商品の数、ユシマの場合は自動車の台数で割った数字だ。たとえば実質作業時間が七時間半で、必要な自動車が三百台の場合、四百五十分 ÷ 三百でタクトタイムは九十秒。つまり一台を一分三十秒で作れということになる。このタクトタイムを徹底させることで会社側は余分な在庫を抱えることなく、効率的な生産を維持できる。

驟雨

「二〇一二年の八月に労働契約法が改正されたんだが、知ってたか」 「俺を含めてその当時のうちの高校の全校生徒が知らなかった、ってのに百万円 賭けてもいいぜ」  脇がいくぶん冷ややかに答えた。脇と同い歳の矢上もまったく記憶になかった。一歳下の泉原は今はじめて聞いたと答え、当時浪人生だったという秋山は、両手を上げて降参の意を表した。玄羽はここからが大事なところだとでも言うように、四人の顔をひとわたり見回してから話し始めた。 「その年には非正規雇用者が労働者の三十五%にまで増えていて、世の中でもその不安定な働き方が問題になっていた。だからこの法改正には、有期雇用契約の乱用を規制しようという趣旨があったんだ。平たく言えば、ユシマのような大企業が非正規を便利に使えば使うほど、そのぶん不安定な状況で働く人間が増えてしまうわけだから、これを野放しにするのではなく、一定の規制を設けようと。まあそういう考え方だ。そこで、法改正で期間従業員などの非正規雇用者に対して『五年ルール』が導入された。非正規社員が同じ会社で 通算五年を超えて働いた場合、本人が希望すれば会社はその社員を無期雇用に転換しなければならないというルールだ」

「おまえたちが学校で習ったとおり、法律を審議して制定するのは国会の役割で、法改正も同じだ。だが改正案が国会に提出される以前に所管庁、この場合は厚生労働省だが、そこに招集された分科会等で具体的な内容までほぼ固められていることも少なくない。労働法の改正の場合、その種の会の中枢メンバーには必ず、財界の意向を反映すべく大企業の役員クラスが名を連ねている。そして、そいつらと結びついた政治家が肝心なところで常に財界に有利になるように立ち働く」 「もちろん政治家には見返りがあるわけですね」  矢上は語尾を上げずに玄羽の目を見た。 「ああ、それも大手を振って受け取れる見返りがな。大企業を中心に構成された利益団体は長いあいだ、政党別に政策を評価してそれを発表してきた。そして、その評価をもとに団体に加盟している企業に堂々と献金を呼びかけてきた。おかげで、財界に都合の良い政策をやる党や政治家にどっさりと金が舞い込むようになった。これが批判を浴びて政治資金規正法が改正されたのが一九九四年。ようやっと企業や団体から政治家個人への献金が禁止された。だが、それでどうなったかといえば、政党支部等を利用した 迂回献金やパーティー券の購入を通じて相変わらず政治家に金が流れ続けているわけだ」

共謀罪とは、『組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律』、いわゆる組織犯罪処罰法が二〇一七年に改正された際に、第六条の二に新たに規定された犯罪だ。政府は〈テロ等準備罪〉と呼称しているが、過去に三度、廃案となった共謀罪と本質が同一であるため、現在も一般に共謀罪と呼ばれている。この共謀罪を適用すれば、事を起こしていない段階で容疑者を逮捕できる。二人以上の人間が計画を話し合い、その実行のために何らかの準備を行ったと捜査当局がみなせば、未遂であろうと、計画が中止になろうと処罰が可能なのだ。

非常識な時間に人の家を訪問できるのは警察官の特権のひとつである。

GHQの当初の労働政策は明快だった。すなわち労働の民主化だ。中間搾取や強制労働の恐れのある制度、なかでも親分子分のような封建的な身分関係で労働者を縛り、不安定な様態で働かせる労働者供給事業が禁止され、同時に作業請負も全面的に禁じられた。それまで造船や炭鉱などの現場へ〈○○組〉から供給されていた臨時工らは、本社から直接雇用される形になった。

次は高度経済成長まっただ中の六〇年代後半だった。労働基準法等で禁止されているはずの労働者供給事業を行う派遣会社が登場する。そして社外工、業務請負など脱法的に規制をすり抜けるかたちで派遣が始まる。七〇年代には現在の派遣大手のほとんどが設立されるが、第一次オイルショック後の七〇年代後半からはなし崩し的にその数が急増していく。  この状況を受けて、〈派遣労働者の保護〉という名目で、八五年に労働者派遣法が成立する。

テレビでは労働者派遣法成立のニュースが大きく報じられたが、この法律で派遣が許可されたのは、通訳や翻訳、ソフトウエアの開発などの『専門的な知識、技術又は経験を必要とする業務』であると 喧伝 されており、プロフェッショナルな人がいろいろな場所に赴いて働くのだな、という印象だった。

『就業形態、雇用形態等の特殊性により、特別の雇用管理を行う必要があると認められる業務』という一文からは、それが具体的にどんな職種を指しているのかさっぱりわからない。そもそも『特別の雇用管理を行う必要がある』と誰が認めた場合の話なのかが明示されていない。それが派遣先でも派遣元でも、どちらかが認めれば良しというのなら、どんな職種も当てはまるのではないか。そう考えつつ、派遣が許可された十三の業務を見てみると、通訳や財務処理などの専門的知識を要するもののほかに、建築物清掃、受付・案内・駐車場管理、ファイリングなどがあり、脇が赤丸をつけて〈コレ〉と記している。どうやらこれらが『特別の雇用管理を行う必要があると認められた業務』らしい。なんのことはない、社内で単純労働に従事していた常用労働者を、この機に社外の派遣労働者に切り替えたいという企業側のあからさまな要望を 叶えたものだ。

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