はじめに 中世ヨーロッパにおけるローマ・カトリック教会の権威は絶大なものでした。神と人との唯一の仲介者として、宗教だけでなく、政治や日常生活の広範囲にわたって強い影響力を行使していました。この体制に疑問を突きつけて、信仰そのものを根本から問いなおし、教会の、そして社会全体のあり方を大きく変えていったのが宗教改革
一五一七年にドイツのヴィッテンベルクの修道士マルティン・ルター(一四八三~一五四六) が、教皇による 贖宥 状 販売に対して「九十五箇条の論題」を提示し、異議を唱えたことから始まったとされています。ルターが投じた一石の反響はすさまじく、ローマ教皇の権威を否定するいわゆる非カトリックの宗派が各地で形成され、十六世紀半ばには、かつて一体であったカトリック圏は、大きく分裂
こうした宗教改革が起こった背景として、中世末期のヨーロッパでは教会の道徳的 堕落 が目立っていたこと、一方で戦争や 疫病 に見舞われた人々の間で強い信仰心が芽生えていたことがしばしばとりあげられます。
実際、教会の刷新を求める運動はこの時期から起こっていました。イングランドのジョン・ウィクリフ(一三二〇頃~八四) は聖書を最高の権威とみなして、カトリック教会の権威を否定する思想を展開しました。
ウィクリフの思想を受け継いだボヘミアのヤン・フス(一三七〇頃~一四一五) は、説教を通じて教会を果敢に批判しました。民衆に危険な思想を広めているとみなされたフスは、教会によって異端者と断定され、 火刑 に処せられてしまいます。しかしフスを支持するボヘミアの人たち、すなわちフス派は逆に結束を強め、これを撲滅しようとしてカトリック教会側が差し向けた軍を撃退
フスやフス派の運動は、十六世紀にドイツで始まる宗教改革と同じようなものだったのでしょうか。もしもこれが〝先駆的〟な宗教改革と呼べるようなものであったならば、両者はどのように関連するのでしょうか。それともボヘミアの事件は単なる 前哨戦、あるいは突発的な事件のようなもの
ボヘミアとは現在のチェコ共和国西部のプラハを中心とした地域の名称で、ドイツ語ではベーメン、チェコ語ではチェヒと呼ばれます。当時は、近隣のモラヴィア、シレジア、ラウジッツなどとともに「ボヘミア王冠諸邦」という一種の連合国家のようなものを形成していました。
フスの登場 ベトレーム礼拝堂の説教師としての活動 ヤン・フスは、しばしば、細おもてであごひげを生やした姿で描かれています。これらはいずれも後世の想像図で、実際にどのような容貌であったかはわかりません。このような図に描かれているのは、むしろ十六世紀以降のプロテスタントの指導者に近いイメージといえます。フスはカトリックの聖職者でしたから、頭は 剃髪 で、ひげはおそらく生やしていなかったでしょう。
フスはおそらく一三七〇年頃、ボヘミア王国南西部のプラハチツェという小都市に近いフシネツに生まれたと推定されています。フスがプラハチツェで学校に通っていた頃に住んだと言われる家が、今でもこの街には残っています。聖職者をめざしたフスは、王国の都プラハの大学に入学し、一三九六年に自由学芸学部のマギステルの学位を獲得しました。マギステルは現在でいうマスター(修士)
ここでヨーロッパ中世の大学について少々触れておきましょう。ヨーロッパでは、教会その他で高い地位に 就くために神学や法学の素養が重視されるようになるにつれて、十二世紀頃から、教師と学生からなる一種の組合としての大学が各地の都市で誕生しました。特にフランスのパリ、イタリアのボローニャやサレルノの大学は高い権威を誇っていました。










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