世の中には、そういう一応の言語化すら絶対に不可能なことがある。そしてそれは、私たちがいまもっている言語の不正確さや不完全さのせいではないとウィトゲンシュタインは考えます。つまり、仮に言語化の可能性をどれほど高く設定しても──かぎりなく解像度が高く曖昧性の低い、どこまでも精密な言語が存在すると仮定しても──その言語ですら原理的に言葉にできないことがある、と彼は考えるんですね。彼が言わんとしているのは、そういう、 いつ誰がどうやっても絶対に言語化できないことについては沈黙しなければならない、ということなんです。
また、これは次章でも触れますが、『論考』において彼は、語りうることと 考えうる ことをある意味で同一視します。つまり、言語の限界と思考の限界は一致するということですね。だとすれば、彼が言わんとしているのは、誰がどうやっても絶対に 思考できない ことについては沈黙しなければならない、ということでもあるんです。
哲学者たちは一見すると、こうしたことを問い、それに答えようと試みるなかで、とても深遠なことがらを語っているように思える。でもウィトゲンシュタインによれば、実際には意味のあることを語っていない。そして、哲学者たち自身がそのことに気づいていない。 そうとは気づかずに、本当は語りえないことがらを語ろうとすると、往々にして、その当のことがらを損なったりねじ曲げたりしてしまうことになります。それはちょうど、詩をパラフレーズすることがその美しさを殺し、ジョークを解説することがその 可笑しさを殺してしまうのと同様です。 具体的には後の第3章で解説しますが、哲学的な問題も、確かに何か核心的なことに触れようとはしているのですが、しかし、それを有意味なかたちで語ろうとすると、その大事なものをゆがめて、いわば別物にしてしまう。だから、たんに「沈黙するほかない」だけではなくて、「沈黙しなければならない」んだと思います。語りえない大事なことを損なったりねじ曲げたりしないために、語ろうとしてはならない、という倫理です。
それにしても、ここでウィトゲンシュタインは何とも大胆な、恐ろしいことを主張していると思いませんか。彼は、古来の哲学者たちが問うたり答えたりして残してきた言葉は実は無意味だと言っているわけですから。つまり、言語化可能なことの限界を引く『論考』という書物は、同時に、哲学の問題の大半は擬似問題だと言い放つ一書なんです。その意味で、彼は大胆にも、 哲学を終わらせる ことをはっきり 企んでいたのです。
つまり、物だけでは、物が存在するかどうかも、物がどう存在するかも、何も出てこない。物は物、ペンはペンでしかない。物だけの世界においては、物の有無も性質も関係も何も見当たらない。 だから、私たちがこの世界のなかで日々出会っているのは、物ではなく事実なんですね。私たちはまず、デスクの上にペンがあるといった事実に出会い、そこから、デスクやペンといった物をそれとして切り出して捉えるわけです。 これが、『論考』の大前提であり土台となります。これに関連してもう一点だけ補足すると、物それ自体は 真でも偽でもない、というふうにも言うことができます。「デスクは真である」とか「ペンは偽である」というのは意味不明ですよね。真や偽でありうるのは、物ではなく、 こと です。つまり、「デスクの上にペンがある」ということや、「このペンは赤い」ということなどが、真であったり偽であったりしうる。言い換えれば、成立していたり成立していなかったりしうる──事実であったり虚構であったりしうる──ということです。これが『論考』を読むにあたってまずおさえておきたい基本的なポイントです。
想像可能な事態のうちのごく一部が成立し、事実となって、この世界を構成しています。すなわち、人類が月に行ったり、いまデスクの上にペンがあったりする世界のなかで、私たちは暮らしています。そして、そうした成立している事態(=事実) を取り囲み、包み込むように、成立していない事態(=虚構) が無数に広がっています。この無辺の広がり全体のことを、ウィトゲンシュタインは「 論理空間」と呼び表しています。 つまり、「論理空間」とは 事態の総体 のことです。成立している事態であれ、成立していない事態であれ、 論理的に 可能な事態すべての集合が、論理空間であるわけです。
整理しましょう。事実(=成立している事態) すべての集合が、世界です。そして、事態すべての集合が、論理空間です。図にすると分かりやすいかもしれません。
なのでウィトゲンシュタインは、「諸々の事態の成立・不成立が現実である」と述べるわけです。実際にどんな事態が成立し、また、成立していないか、そのことを表すのが「現実」という概念なのだということです。
ちなみに、ウィトゲンシュタインは続く第二・一一節では、諸々の事態の成立・不成立のことを「 状況」とも呼んでいます。『論考』において「現実」と「状況」は互換的な概念だと言えるでしょう。
「論理空間」とは、成立・不成立にかかわらず一切の事態が集まった全体を表す概念です。それに対して「現実」ないし「状況」とは、成立している事態と成立していない事態を分かつ境界線を、論理空間のなかに描き入れる概念だと言えます。そして「世界」とは、現実(=状況) のなかの特に成立している事態のほうに焦点を当てる概念として捉えることができるでしょう。










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