ちゃんとすること、それは、道徳的・倫理的な響きがある。そして道徳的・倫理的に正しそうに聞こえるから、誰も否定できない。誰もが正しいと思わされる。けれど、よくよく目を凝らしてみると、ちゃんとすることは、道徳・倫理だけの話ではないことが分かってくる。 ちゃんと働くことは「かっこいい」し、ちゃんとご飯を作ることは「しっかりしている」し、ちゃんとした格好をするのは「素敵」だし、ちゃんとした付き合いをするのは「美しい」し、ちゃんと生活に向き合うのは「大人びて」いる。実は、ちゃんとしている、と言われるとき、必ず、道徳・倫理的な意味だけではなくて、「美的・感性的」な評価がなされている。しかも、道徳・倫理的なことよりもいっそう深く。 つまり、「ちゃんとしている」という言葉は、道徳・倫理的な言葉に見せかけて、美しいかどうか、という美的・感性的な言葉なのだ。
私たちの生活では、道徳と美が癒着してしまっている。それゆえ、ちゃんとすることが、本当に道徳・倫理的に良いことなのかどうかを検討する余地はなくなってしまう。誰かの都合のいいように、道徳と美は利用されてしまっている。だから、道徳・倫理的には働き過ぎないほうがいい、と指摘しても、人々の美的な感性はそれに対して反論する。「
青田に代表されるようなVlog鑑賞者の焦りの大半は、Vlog鑑賞者のせいではない部分もある──というかほとんどがそうではないのだろうか。「私はいつも、何かに振り回されていると感じているわけです」と青田は言う(青田 2024, 250)。「私」を振り回すのは何か? それは、他でもなく「社会の構造」なのではないだろうか?
もちろん、「北欧、暮らしの道具店」にせよ、wawawa本人にせよ、あるいは青田が挙げるような何気ないルーティン動画にせよ、社会構造を個人に責任転嫁しようと思って映像を作っているわけではない。そのような意図はおそらく彼らにはまったく存在しないだろう。それはこんまりにもおそらく言える。こんまりもまた、そのような意図はまったく持たないだろう。彼らは彼らの表現したいことを、より美的な世界や生き方を共有したいと考えているはずである。私が言っているのは、彼らの意図とは関わりなく、社会の構造によって彼らの映像は、社会問題の個人化に役立てられてしまうという現象なのだ。
Vlogに映し出されているのは生活風景ではない。それは芸術作品としての生活である。芸術作品としての生活は私たち現実的な生活を生きている者にとってはいっさい関係がない。Vlogとは芸術的生活なのだ。それは日常を生きる私たちとはあまり関係もない映像である。関係がないから単に眺めて楽しめばよく(丁寧な暮らしをする人々に対して)、あるいは驚嘆すればよく(ハイボールを飲み干す人に対して)、そこに憧れも焦りも感じる必要はない。 もちろん、いまの暮らしを改善していきたいという思いのどこにも悪さはない。ただ、その改善が「焦り」からばかり生じているのだとしたら、何かがおかしい、と私は思う。焦りが生じるとき、私たちは、純粋に暮らしをよくしたいと思えているのではなく、何か別の「かくあるべし」という観念に襲われている危険があると私は推測する。 私は「ふつうの暮らし」と言った。しかし、「ふつう」とは千差万別で一つきりではない。私たち一人ひとりに適した生活スタイルは、家具、家電、部屋のサイズ、人々の発達的・認知的傾向、パートナーやペットの有無などによってまったく異なる。確かに共通して使えるテクニックはあるが、どれもテクニックでしかない。どのテクニックがより美的なのか、あるいは道徳に適っているかどうかについて誰かが主張していたとしてもよくよく疑いの目をもって観察すべきだろう。
生活スタイルは、Vlogで映し出されているように理想的な金型があり、それに適合させるべきものだ、という発想に背を向けるべきだ。生活スタイルは、私たちの中から漏れ出てきた分泌液が殻になっていくような、より地味で、理想をもたないものだと私は考える。生活スタイルの美的なよしあしや道徳的なよしあしについて云々することは、もっとずっと慎重になされるべきだ。
以上の話から、自炊などという実践はたいしたものではなく、なくなっても差し支えない文化である、という主張を読み取ることもできるかもしれない。私は料理という行為を愛している。だから、自炊という文化それ自体が消え去ることを私は望んでいない。しかし、自炊がそもそも難しい状態にある人々にもっと自炊せよ、と命じることでは、自炊文化はどんどんとやせ細っていくだろう。だとすればどうすべきか。私が提案したいのは、自炊をめぐる問題を個人化するのではなく、社会化することで、自炊の課題に向き合うことだ。
まずは、労働の中で動く私たちの心のゆらぎをモデル的に記述してみよう。私たちのほとんどにとって、労働はつらい。ならば、なぜ人は適当に働けないのか。ワークライフバランスを保ち、賃金分の労働はしながら、成果をほどほどに出しつつ、きっちりと仕事をしながらも自分の仕事以外の時間がもっとも重要である、という適当な、いい塩梅の態度で働けないのか。例えば、夜にメールが来たら無視したりする。そうすることはなぜできないのか。かんたんなはずだ。よし、適当に働こう、と思えばよい。適当に働ければいいのに、なぜ人は適当に働くことが難しいのだろうか。 それは、「ちゃんとしていない」と判断されることに私たちが耐えられないからだ。私たちは、ちゃんとしなければならない、という美的規範を内面化している。適当に働くことは、必然的に「ちゃんとしていない」という評価を与えられることを意味する。しかし、ちゃんとする、とはなんだろうか。ちゃんとすること、それは一つの態度であるが、なぜ労働においてちゃんとしていないといけないのだろうか。
それゆえ、極端に言って、私たちは、仕事の成果よりも、「仕事振り」において同僚や仕事相手を評価している。そして、その評価は自分自身にも跳ね返る。いくら適当に働けばいい、と言ってみても、適当に働いている、と思われることを私たちは極度に恐れる。労働に対して身を入れることこそが、大人としての美学を遂行できていることになるからだ。逆に、仕事に身が入っていない人を私たちは軽んじる。
私たちは「ちゃんとする」という美的価値を内面化してしまっている。そのために、「適当に働きたい」という自分の欲求を自己検閲してしまい、それを退ける。なぜなら、「適当に働く」ことは「ちゃんとしていない」ため、美的に醜い、と美的判断するような、美的選好が内面化されてしまっているからだ。つまり、私たちの美的判断には、外から何かが寄生しているのだ。あたかもエイリアンのように。私たちのまなざしが、侵食され、資本主義の精神を支えるようなタイプの規範にそぐわない労働態度を批判的なまなざしでみるようになってしまう。
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