個人単位の能力論に 拘泥 している限り、バカだなんだ論は水掛け論にすぎません。
不安は売れます。ニーズは不安の化身なのです。
欧米では学校教育の段階から重視されている「批判的思考」が 俎上 に載らないのも、日本らしさと見ることができます。
戦時中という過酷な状況下での振る舞いすらも、「清太自身が判断を誤ったせいである」と問題を個人化する時代へ――。すべてを「個人の能力」の問題へと還元するこの風潮は、紛れもなく能力主義時代の産物です。
組織を本当に活性化させたいのであれば、自身の想像の範囲内だけで仲良しごっこをしている場合ではありません。職務要件を明確にして、複数人で担い合う方策を練ることこそ、雇用者と被雇用者のフェアな関係への道しるべになるのではないでしょうか。
曖昧で漠然としている上に、国や時代、環境が変われば、定義もたやすく移り変わっていくもの。しかし、どんな状況下にあっても「頭のよさ」にまつわるひとつの共通認識があります。それは、「過去への評価」という側面です。
では、なぜ日本では「業績」ではなく、「能力」という言葉がフィットしたのか? 結論を先に出してしまいます。 これはもう、権力を持っている側の怠慢と言っていいでしょう。
頭がいい」という曖昧で測りがたいものを目指しても、その努力は残念ながら徒労に終わりやすいものです。なぜなら、目標とするにはあまりに解像度が低くて曖昧だから。
「能力」とはそもそも、個人の内側にある絶対的・固定的な存在ではありません。本来の「能力」とは、環境や運、タイミング、人間関係などの組み合わせによって、発揮されたり、されなかったりする「状態」にすぎないのです。つまり、文脈依存的であり、状況ごとに揺れ動くものでもあります。
能力主義は選抜とセットである限り、認められる範囲は常に限定的です。より頑張った者、成果を出した者だけが精鋭として選抜され、残りの大多数は取り残されてしまう。
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