『暇と退屈の倫理学』は、豊かさと自由が増したはずの現代人が、なぜかえって退屈し、不幸になりうるのかを問う本である。中心にあるのは、暇と退屈の区別だ。暇は「する必要のない時間」という客観的条件であり、退屈は「何かをしたいのにできない」という主観的状態である。著者はこの区別を起点に、哲学・社会思想・人類史を横断しながら、退屈がどのように生まれ、現代社会でどう利用されているかをたどっていく。
本書で特に印象的なのは、退屈の反対は楽しさではなく興奮だという洞察である。人は楽しいことそのものより、「今日を昨日から区別してくれる事件」を求める。だから退屈した人間は、時に不幸や負荷すら望みうる。パスカル、ラッセル、ハイデッガーらの議論を通じて、著者は人間がなぜ気晴らしや仕事、使命、消費に没頭したがるのかを解き明かす。
さらに本書は、現代の消費社会批判へ進む。人は物を消費しているのではなく、物に付与された観念や意味を消費している。だから消費は終わらず、満足にも到達しにくい。モデルチェンジや「個性」の追求が終わらないのもそのためであり、暇は資本に搾取される。
そのうえで著者は、解決を単なる禁欲に求めない。重要なのは、楽しみや快楽をすでに持っていることではなく、それらを心から求められることだとする。楽しむには訓練が必要であり、物や出来事を受け取る力を育てることが、思考する力にもつながる。退屈を消し去るのではなく、退屈とともに人間らしく生きる術を探ること。それが本書の倫理学である。
幸福な人とは、楽しみ・快楽を既に得ている人ではなくて、楽しみ・快楽を もとめることができる 人である、と。楽しさ、快楽、心地よさ、そうしたものを得ることができる条件のもとに生活していることよりも、むしろ、そうしたものを心から もとめることができること こそが貴重なのだ。 有名な聖書の言い回しをもじって、こんな風に言えるだろうか。 ──幸いなるかな、快楽をもとめることのできる人。彼らは事件をもとめることがないだろう。 ならば問題は、いかにして楽しみ・快楽を得るかではない。いかにして楽しみ・快楽を もとめることができるようになるか、である。
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消費の対象が物ではないからである。 人は消費するとき、 物 を受け取ったり、 物 を吸収したりするのではない。人は物に付与された 観念や意味を消費する のである。ボードリヤールは、消費とは「観念論的な行為」であると言っている( 3)。消費されるためには、物は記号にならなければならない。記号にならなければ、物は消費されることができない(
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ひと言で言えば、 退屈の反対は快楽ではなく、 興奮である」( 15)。 退屈しているとき、人は「楽しくない」と思っている。だから退屈の反対は楽しさだと思っている。しかし違うのだ。退屈している人間がもとめているのは 楽しいことではなくて、 興奮できること なのである。興奮できればいい。だから今日を昨日から区別してくれる事件の内容は、不幸であっても構わないのである。 人は楽しいことなどもとめていない 退屈する人間は興奮できるものなら何
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なぜ暇は搾取されるのだろうか? それは人が退屈することを嫌うからである。人は暇を得たが、暇を何に使えばよいのか分からない。このままでは暇のなかで退屈してしまう。だから、与えられた楽しみ、準備・用意された快楽に身を 委ね、安心を得る。では、どうすればよいのだろうか? なぜ人は暇のなかで退屈してしまうのだろうか? そもそも退屈とは何か? こうして、 暇のなかでいかに生きるべきか、 退屈とどう向き合うべきか という問いがあらわれる。〈暇と退屈の倫理学〉が問いたいのはこの問いである。
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暇とは、何もすることのない、する必要のない時間を指している。暇は、暇のなかにいる人のあり方とか感じ方とは無関係に存在する。つまり暇は 客観的な条件 に関わっている。 それに対し、退屈とは、何かをしたいのにできないという感情や気分を指している。それは人のあり方や感じ方に関わっている。つまり退屈は 主観的な状態 のことだ。 たとえば、定住革命は暇という客観的条件を人間に与えた。それによって人間は、退屈という主観的状態に陥った。このように説明できるだろう。
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生きているという感覚の欠如、生きていることの意味の不在、何をしてもいいが何もすることがないという欠落感、そうしたなかに生きているとき、人は「打ち込む」こと、「没頭する」ことを 渇望 する。大義のために死ぬとは、この 羨望 の先にある極限の形態である。〈暇と退屈の倫理学〉は、この羨望にも答えなければならない。
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つまり、気晴らしが熱中できるものであるためには、お金を失う危険があるとか、なかなかウサギに出会えないなどといった 負の要素 がなければならない。 この負の要素とは広い意味での 苦しみ である。苦しみという言葉が強すぎれば、負荷と言ってもいい。気晴らしには苦しみや負荷が必要である。 ならば次のように言うことができるはずだ。 退屈する人間は苦しみや負荷をもとめる、と。
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ハイデッガーは、退屈する人間には自由があるのだから、決断によってその自由を発揮せよと言っているのである。退屈はお前に自由を教えている。だから、決断せよ──これがハイデッガーの退屈論の結論である。 * 本章
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おろかなる人間は、退屈にたえられないから気晴らしをもとめているにすぎないというのに、 自分が追いもとめるもののなかに本当に幸福があると思い込んでいる、とパスカルは言うのである。 どういう
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結局、 ある種の深い退屈が現存在の深淵において物言わぬ霧のように去来している( 8)(「現存在」というのはハイデッガー独自の用語で、端的に人間のことを指している)。 何も言わない霧のように、いつの間にやら退屈がただよってきて、私たちの周囲を 覆い尽くしている……。ハイデッガーが抱いていたのはそんなイメージである。そして、この退屈こそが私たちにとっての根本的な気分であるとハイデッガーは言うのだ。つまり、私たちは退屈のなかから哲学する他ない、と。 こうして
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Glasp上の33件のハイライトを分析すると、本書は退屈の構造を言語化する力と、消費社会への批判の鋭さで強い共感を集めている。特に「退屈の反対は快楽ではなく興奮」「人は観念や意味を消費する」といった一節が繰り返し支持されており、読者への思考刺激が非常に大きい一冊だといえる。
Glasp AI analysis based on highlights from 33 readers.
現代の消費社会や働き方に違和感がある人、暇が増えたのに満たされない人、自分の「好き」が本当に自分のものか疑いたい人に向いている。哲学書だが、中心テーマはきわめて生活に近い。退屈・欲望・消費・自由に関心のある読者、仕事や趣味への没頭が逃避なのか充実なのか考えたい人、教養としてパスカル、ラッセル、ルソー、ハイデッガーを横断的に学びたい人に特におすすめ。










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