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今を生きる思想 西田幾多郎 分断された世界を乗り越える (講談社現代新書100)
www.amazon.co.jp/dp/B0C1BR1VNZ
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例えば、色を見、音を聞く 刹那、 未だ之が外物の作用であるとか、我が之を感じて居るとかいうような考のないのみならず、此色、此音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。(①9) 要するに、何かの色を見た瞬間、何かの音を聞いた瞬間、この色、この音は何だという判断もまだ加わっていない状態を純粋経験と呼んでいるのだ。
私たちは自分自身と周囲の世界との関係を次のように理解している。つまり、まず私という個人がいて、その外側に私を取り巻く世界があり、その世界にはさまざまな事物がある。私たちは、それらの事物を、見たり、聞いたり、それに触れたりしている。これは、主観としての私と、客観としての対象──世界やそのなかの諸事物──とを分けて考える、主観と客観の二分法による見方である。
「純粋経験」という言葉からは個人の特殊な経験や意識状態をイメージしやすいが、西田のいう「純粋経験」はむしろ私たちにとっての〈 生 の現実〉とでも呼べるようなものである。実在は「現実そのままのもの」だといわれるが、私たちが夕日を見て「ハッ!」とするように、経験の原初形態である〈生の現実〉は主客未分である。そこでは自己と世界は別個に存在するのではなく、一体のものとして分かちがたい。〈生の現実〉には 汲み尽くすことのできない 豊饒 さがあり、その現実から主観としての私と客観としての事物とが分節化されてくると考えられる。私たちは、こうしたありのままの現実の一部を意識化し、言語によって対象化している。その源となる〈生の現実〉を主観としての自己に即して表現した言葉が「純粋経験」なのである。それはまた、言...
この純粋経験は、他者との関係においても語られている。それは他者への愛や共感の源泉として捉えることができるのだ。 『善の研究』では、愛とは自己と他者とが一つとなる感情だという。西田は愛を「自他一致の感情」あるいは「主客合一の感情」(① 125) としており、また「親が子となり子が親となり 此処 に始めて親子の愛情が起るのである」(① 157) とも述べている。このように語られる愛とは、主客合一の純粋経験だと考えていいだろう。 また西田によれば、知ることと愛することとは同じ精神の働きであって、他者の感情に共感することが、他者を愛することであり、そして知ることであるという。例えば次のような言葉がある。 我々が他人の喜憂に対して、全く自他の区別がなく、他人の感ずる所を 直に自己に感じ、共に笑い共に...
ここで「直観」といわれているものが『善の研究』での純粋経験に相当する。これに対して「反省」は直観の外側からこれを見た意識だとされ、主客の二分法による反省的思惟のことである。西田によれば、直観と反省との関係を明らかにするものが「自覚」だという。自覚においては、自己が自己の作用(働き) を反省するとともに、反省することによってものの見方が無限に深まっていく。そこでは反省は外から加えられたものではなく、むしろ直観と反省を両方とも含んでいる。西田は純粋経験(=直観) に対する反省を含み込んだ、より包括的な立場として「自覚」の立場を構想したのである。
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