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クリティカル・ワード 文学理論
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江戸時代、京都は堀川のほとりに私塾をかまえていた伊藤仁斎という在野の儒学者がおりました。今風にいえば、超一流の「文学理論家」と呼んでもいいでしょう。その仁斎先生が『童子問』という著書のなかで、「多学」を戒め「博学」を勧める有名な一節があります──「博学」が「 一 にして 万 に 之 く」もので、根から幹、幹から枝が生え、そこに葉や果実が繁茂稠密する「根有るの樹」であるのにたいして、「 万 にしてまた 万」の「多学」は布ぎれでつくった造花にすぎず、一度にぱっと咲きみだれ人目をよろこばしはするものの、しょせんは死物、成長ということがない。
一定の浸透を見た後で理論が魅力を失うということは、それ自体としてはけっして不思議なことでもなければ、一概に悪いことでもなく、古来、繰り返されてきたことである。たとえば、レトリックという学問は、古代ギリシアにおいて説得の幅広い技法として大いに活用され、その有用性ゆえに西洋の教育の中枢に据えられたが、それゆえに却って、その後は徐々にいわゆる「修辞学」の文彩目録に還元されて形骸化し、活気を失った。批評家ロラン・バルトが1970年に総括して終焉を宣言した
テクスト」というのは、味わい愉しむことをもたらすものであるのだが、しかしその味わいは、誰もが共通して受け取れるようなリーダブルなストーリーから得られる面白さとは異なるものだからである。「テクスト」の対概念は、そのような意味での「ストーリー」あるいは、一部のフィクション論論者が前提とする「虚構世界」だと言ってもよいだろう。粗筋として要約されるような「ストーリー」や統一的な「世界」として没入の対象となる「虚構世界」からはこぼれ落ちる細部にこそ、「テクスト」の「テクスト性」はある。
この文章では先ほどまで、あえて「一篇の小説や詩や戯曲など」といったまどろっこしい言い方をすることで、「作品(work, œuvre)」という言葉を避けてきた。「作品」という言葉が取り逃がしてしまうものこそを問題にしたいからである。しかし、共通了解ができさえすれば、まどろっこしい言い方の代わりに用いたいのが「テクスト」という言葉で
あらゆるテキストは「テクスト」だと言って言えないことはなく、むしろ、テキストを「テクスト」として読もうとする姿勢こそがここでの問題なのである。そして、それがいったんどういうものか──感触的に──わかってしまえば、「テクスト」はきわめて便利な、多用したくなる言葉となるだろう。
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