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独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書)
www.amazon.co.jp/dp/B082KFMK31
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ソ連軍の実力に対する過小評価だったと考えられる。七月二一日に開かれたヒトラーとの会議で、陸軍総司令官ブラウヒッチュは、対ソ戦の可能性と作戦案について報告している。その際、ブラウヒッチュは、ソ連軍が使える優良師団は五〇個ないし七五個師団程度と予想されるから、作戦に必要なのはドイツ軍八〇個から一〇〇個師団ほどだろうと述べた。のちの独ソ戦の経過を知る後世の人間にとっては、信じ難い見積もりではある。だが、これこそが当時のドイツ国防軍の認識なのであっ
今日では、ドイツ国防軍の元将軍たちによる、キエフよりもモスクワを先に攻めるべきだったとする主張は成り立たないことが論証されて
近代用兵思想に大きな影響をおよぼした『戦争論』の著者カール・フォン・クラウゼヴィッツは、敵のあらゆる力と活動の中心が「 重心」であるとし、全力を以て、これを叩かなければならないと論じた。敵の軍隊が重心であれば軍隊を撃滅し、党派的に分裂している国家にあっては首都を占領し、同盟国に頼っている弱小国の場合は、その同盟国が派遣する軍隊を攻撃するべしというのが、クラウゼヴィッツの主張であった。 にもかかわらず、クラウゼヴィッツの 後裔 たちは、対ソ戦の遂行において、敵の重心は何であるかを考えなかった、あるいは、それはモスクワにちがいないと、確証もなしに信じ込んだので
カティンの殺戮であろう。一九四〇年三月五日、NKVDは、ソ連軍の捕虜となったポーランド軍将校の抹殺を提案した。スターリンとソ連共産党政治局は、これを承認、スモレンスク西方二〇キロの地点にあるカティンの森で、捕虜となったポーランド軍将校が大量に射殺された。ほかにも、カリーニンやハリコフの監獄で処刑が行われており、殺害されたポーランド軍将校(警察の幹部も含む) の総数は二万二〇〇〇名におよんだと推計されている。この蛮行が、軍事的な抵抗運動の芽をつむことを狙っていたのはいうまでも
一九四一年六月二二日に、ドイツの奇襲を受けてソ連軍が大敗するとともに、スターリニズムの脆弱性もあらわになった。ウクライナや旧バルト三国では、ドイツ軍はスターリン体制からの解放者として歓迎された。また、開戦半年のあいだに、数百万のソ連軍将兵が捕虜になったのは、スターリニズムに対する一般的な拒否意識の表れだったとするのは、おおかたの西側研究者が同意するところである。ただし、この反スターリン意識も、ドイツ軍や親衛隊の残虐行為があきらかになるにつれて消えていき、民衆も体制支持に転じたとさ
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