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松永久秀と下剋上 (中世から近世へ)
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太政大臣となった義満以降、足利将軍家は公家社会にも君臨した。そして、公武一体で改元にあたってきた。しかし、そうした慣習を無視し、弘治改元の執奏も費用負担もしなかった将軍義輝は、朝廷から見放された。そうすると、義輝は自らの怠慢を棚に上げて、天皇大権を否定し永禄改元に従わなかった。公武一体は失われたのだ。
永禄二年に義輝が上洛を呼びかけたり、上洛してきたりした大名は、伝統的な守護家ではなく、こうした下剋上によって国主となったばかりで、立場が不安定な者たちであった。彼らは領国支配の安定を図るため、将軍による公認を求め、幕府の秩序に位置づけられることを望んでい
三好長慶は義輝を近江に追放していた時期から、上杉謙信や毛利元就と友好関係にあった。ところが、互いに領国が接するなどの緊張関係がないにもかかわらず、室町幕府の秩序の危機に際しては、謙信も元就も義輝との関係を選択したのである。
京都の諸本山を調停した久秀だけでなく、本山が延暦寺や六角氏に焼き討ちにされた 天文 法華 の乱に際して、その避難先となった堺の諸寺院をまとめあげた久秀の母の役割も
母の病気を心配して自分の方が倒れたことや、手厚い供養を行っていたことから見て、久秀は相当母思いの息子であったようだ。また、母も久秀の法華信仰や取次の職務、宗教政策に多大な影響を与えていたので
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