Home
My Highlights
Discover
Sign up
Read on Amazon
天台宗と浄土真宗の教義 (響流ブックレット)
www.amazon.co.jp/dp/B01BRKT098
Import Your Kindle Highlights to Glasp Today 📚
Top Highlights
が、伝教大師の場合は、文字通り「仏を念ずる」「仏を想う」ことを指します。この念仏は阿弥陀さまのお姿を心に思い浮かべる「 観相」をいうのです。この観相念仏こそが当時の念仏理解の主たる意味なのです。ですから最澄の浄土思想とは、西方願生の浄土思想ではなく、私の心の中に浄土が
浄土」と呼んでいます。ですからこれらの修行の目的は、私の中の阿弥陀さまと出会うことになります。これが後に「 常行三昧」として伝えられるのです。 ただ、伝教大師が地方に行かれたときに書かれたと思われる『 籠 山 発願文』という一部の史料によりますと「山に帰りて念仏せん」の文が見られます。これは「比叡山に帰って念仏しよう」と読み取れますので、観相念仏というよりは、称名念仏の方がふさわしいように思えます。あるいはみなさんもよくご存知の、親鸞聖人の『 現世 利益 和讃』に、
伝教大師の教学は、中国天台、つまり天台大師智顗の教学を基本としながらも大きく異なっています。日本天台は、 円・密・禅・戒 の 四 宗 融合 という言葉で表されますように、総合仏教なのです。私はこの四つにもう一つ、浄土思想を入れてもよいだろうと考えています。つまり、円・密・禅・戒・浄です。すなわち円教、密教、禅、戒律、浄土思想が総合されているのが日本天台です。中国天台は、 この中の円教を
ます。
「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」という言葉に集約されているように感じます。どのように修行したとしても、それを成し遂げることが出来ない。もはや自分が行くところは地獄しかないという徹底的に自身を見つめた自己内省の言葉ではないかと感じます。これが聖人の叡山における現実面だったのです。 ところが一乗教理は、誰もが仏になる事が出来ると説かれるのですから、両者は
Share This Book 📚
Ready to highlight and find good content?
Glasp is a social web highlighter that people can highlight and organize quotes and thoughts from the web, and access other like-minded people’s learning.
Start Highlighting