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出口王仁三郎 あるカリスマの生涯 (PHP文庫)
www.amazon.co.jp/dp/B00WS65CK2
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第一次世界大戦は大正七年に終わったが、同年日本はシベリア出兵の泥沼に踏み出し、国内では米騒動が頻発して不穏の気を醸成した。大正九年には、第一次大戦の戦後恐慌が忍びより、八幡製鉄の溶鉱炉の火が大ストライキで消えた。 現存の国家体制に満足できず、さりとて社会主義や近代デモクラシーにもついていけない一般民衆にとって、そのような世相は一種の袋小路のように感じられた。自分たちの生活を脅かす危機の徴候を、敏感に肌で感じている人々も少なくなかった。 そこへ、世界の大洗濯と理想社会の出現を予告する「大正十年立替説」が登場したのである。それは、袋小路に迷いながらもみずからの力で世を動かすことのできない彼らからすると、まことに 蠱惑的な響きに富む予告であった。大本の
大本の根本理念は開祖なおの唱えた立替、立直しであり、そこへ王仁三郎の万教同根、世界主義が加算されて独特の宗風を形成した。
日本と満州の関係がいっそう悪化することを憂えた王仁三郎は、そこで破天荒な計画を思いついた。関東軍の先手をうって溥儀をひそかに日本に迎え入れ、一切の謀略から隔離して適当な時機がくるまで隠れ住んでもらおう、というのである。 王仁三郎はこのころ亀岡天恩郷に高天閣という建物を造っているが、これは溥儀の隠れ家を想定してのことという。また、王仁三郎は実際に満州に使節を派遣し、溥儀を日本に伴い帰る下工作も行なわせ
いずれにせよ、この時点での王仁三郎が明白な日本中心主義者であったことはまちがいない。日本をまず理想郷化して次に徳化の波を世界に広げてゆく―― 牽強付会 の 謗りを恐れずにいえば、そして発想のベースがまったく違うことも無視するならば、王仁三郎のこの理念は、日 が唱えた「大日本国」観に通底する響きが感じられないでもない。蒙古襲来という亡国の危機を前にしてのことだが、日 はそれまで「 小日本国」と言っていたのを「 大日本国」と言い改め、日本をもって仏国土つまり世界の中心に位置づけているのである。
会を結成して一年後の成果を数字でみると、地方本部二十五、支部四百十四、賛同者は八百万人になんなんとした、という。賛同者のなかには貴族院議員、衆議院議員、大学教授、陸海軍将校など、著名人も少なくなかった。
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