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「私」の秘密 私はなぜ〈いま・ここ〉にいないのか (講談社学術文庫)
www.amazon.co.jp/dp/B00SH9DY9A
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現在形で「いま私は熟睡している」とか「いま私は失神している」と語ることは不合理なのに、「さっき私は熟睡していた」とか「さっき私は失神していた」と語ることは、不合理どころかごく自然であることです。 私とは、──不思議なことに──こういうかたちで過去形を使える者なのです。そのためには、私は〈いま〉存在していなければならない。過去形を使える者は、現在生きている者です。現在生きつつ、過去においていかに「あった」かを語っているのです。 ここに、現在という時と過去という時という互いに両立しない時、互いに否定的関係にある時(現在は過去ではなく、過去は現在ではない) を「つなぐ」存在者が前提されている。「私はいま 覚醒 しているが、同一の私がさっき熟睡していた」のです。この同一性の了解こそ、「私というあ...
私とは、現在知覚しながら想起しつつあるという場面で、過去の体験を「私は~した」と語る者なのです。時間を捨象してとらえようとするかぎり、いかにしても「私というあり方」はとらえられないでしょう。
こうして、デカルトにおいて、「私とは何か」という問いに対する答えは、はじめから飛び越されています。デカルトの第一命題「私は考える、ゆえに私は存在する」は、明晰かつ判明に精神の直覚によって得られたものではない。そうではなくて、もし「考えるこのもの」を「私」と呼ぶとすれば(cogito)、そして存在しない者(無) が考えることがないと仮定すれば、私は存在する(sum)、という一方的な宣言にすぎないのです。
まとめてみましょう。 (一) 夢や幻覚における体験の場合は、「私が~している」ことも「私が~しているように思われる」ことも、それ自体として切り出すことができず、そのかぎりその違いを語ることそのことが無意味である。 (二) 夢や幻覚における体験の場合は、 あとで 判断する「私が~していたように思われる」ことは絶対確実である。 (三) 現実の無自覚的体験の場合も、夢や幻覚に準じ、「私が~している」ことも「私が~しているように思われる」ことも、それ自体として切り出すことができないが、 あとで 判断する「私が~していたように思われる」は絶対確実である。 (四) 現実の自覚的体験の場合は、「私が~している」ことがそのまま絶対確実であって、これに「思われる」という言葉を付け加えても、確実性のレベルが上...
本書で示したいことは、私とは時間との関係によってはじめて成立するということです。現在のうちに、あるいは時間以前の根源的状態を想定して、そこに私(根源的自我?) が成立するわけではない。私とは「現在は過去ではなく、過去は現在ではない」という二つの時間の両立不可能なあり方を「つなぐ」者としてはじめて登場してくるのです。
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