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だから仏教は面白い!前編
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私たちは欲望の対象を喜び楽しんで、それをひたすら追い続けるという自然の傾向性をもっている。放っておいたら私たちはそちらのほうへと流れていくのだが、その流れに乗ることなく、現象をありのままに観察しなさい。そうすれば現象の無常・苦・無我を悟ることができ、それらを 厭離(厭い離れる)し、 離貪(貪りから離れる)して解脱に至ります。
私たちはその中で、己の快感原則(=快感を追い求めて不快を避けるという生物の基本傾向)にしたがって欲望の対象を恋い求め、その衝動に条件づけられて行為している。そのように 何かをすれば、 自分の欲望や自分の欠如、仏教の用語で表現すれば、 自分の「渇愛(タンハー、喉の乾いた人が水を求めるような強い欲望)」が満たされるだろうと思って行為する わけです。それが私たちの、人生においてやり続けていることですね。
なくなるんじゃないか」というふうに考えて、それで瞑想をやろうとする。 瞑想というのは悟りという目的を達成するための手段だろう。そして手段である以上は、それを一定の条件を満たしつつ実行すれば、目標に到達することができるはずだ。 そう考えて、「先生、じゃあ僕は何時間座ればいいんですか?」「何時間座ったら、どういう結果になるんですか? きっちり教えてください」などと言う人もいるわけです。それは「取引」ですよね。つまり、「僕はこれだけ瞑想しました」「こういう姿勢でやりました」「こういう
ね。「苦」というのは、根源的にはその事態を指しています。私たちは常に「不満足」
お金を追いかけて異性をたくさんゲットして、刺激を補充し続けて死ぬことができるなら、僕は別にそれでいい。金パン教徒で全く構わない。それ以外の人生のモードなんて、僕にはまるで必要ないんだ」と言いきれるのであれば、別にそれはそれでいい と思うんです。それはその人の人生だし、そうした人たちに言えることは、私には何もないですからね。
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