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定本 夜戦と永遠 上 フーコ・ラカン・ルジャンドル (河出文庫)
www.amazon.co.jp/dp/B00QHVFHUY
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書くことの偶然性こそ、書くという行為が本質的に賭博であるというこのことこそ、『夜戦と永遠』という名で呼ばれるこの本の中心にある概念である。「永遠の夜戦」を一望に見下ろせる統一的な視座など絶対に存在しない、ということ自体が「永遠の夜戦」 である。他でもないそれを語った『夜戦と永遠』という本の序文で、筆者はこのことを裏切る訳にはいかなかった。
苛烈な精神分析批判を行ったミシェル・フーコーが、後年インタヴューで述懐していることは正しい。つまり、ラカンを読む者が、読むことを通じて自らを欲望の主体として発見することになるように、彼は自らの発言と文章を設えたのだ(1)。読むことが、知見の単なる移動に終わってはならない。ひとつの苦難であり、困難であり、試練であり、鍛練であり、欲望の劇場でなくてはならない。霞む目を凝らしテクストを読みあてどもなく切れ切れに続く理路を追いノートを取り概念の輪郭を追おうとする作業が、ある惑乱のなかで欲望をそそり続けることになるように。そしてその欲望こそが読む者をラカン的な主体に成形するものであるように。そう、彼はそのことをこそ望んだのだ。ラカンの難解さは、ラカン的主体を生産するためにある。難解さに挑戦し、それをな...
実際に、ラカンは自らが理解できないような仕方で話す場合があるのは「明白な意図がある」ことだと言っている。そこで生れる「誤解の幅」においてこそ理解されることがあるのだと(2)。
わかろうと思うから、わかりたいと思うから、わからない時に怨恨を抱かなくてはならなくなる。そしてわかったときにそれを説いて回りたくなるのだ。そうした茶番をわれわれはもう長く見過ぎた。フーコーが精神分析を批判したときに、「罠にはかかるまい」と思うのです、断固として私は外部に留まり外部から批判したいのです、わざわざ精神分析の言説のなかに立ち入ってこれこれこういう概念はおかしいとか、そういうことは「絶対に避けたい(4)」のです、と言った意味は明らかだ。
彼の言う言語は、実はイメージなのかもしれない。彼の言うイメージは、実は言語なのかもしれない。少しずつ、それらは混ざっている。重複している。だから彼の概念は余剰であり「豊か」ですらありうる。ゆえに何でも説明できる、何にでも当てはめ得る。そのなかにすべての説明の原理が、その本性に反するものですらはじめから胚胎しているのだから。
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