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動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
www.amazon.co.jp/dp/B009I7KP7Y
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時代は六〇年代に大きく変わり、七〇年代以降は、逆に急速にポストモダンの文化的論理が力を強める。そこではもはや、大きな物語は生産もされないし、欲望もされない。ところがこのような変動は、ちょうどその時期に成熟した人々に大きな負担を与える。なぜなら彼らは、世界そのものがデータベース的なモデルで動き始めているにもかかわらず、教育機関や著作物を通じて、古いツリー型のモデル(大きな物語への欲望) を植え付けられてしまっているからだ。結果としてこの矛盾は、特定の世代を、失われた大きな物語の捏造に向けて強く駆動することになる。ここでは詳しく述べないが、たとえば、七〇年代のアメリカで高まったニューサイエンスや神秘思想への関心、世界的に生じた学生運動の過激化などはそのひとつの結果だと考えられる。そして日本のオタ...
ここで
他方で「スノビズム」 とは、与えられた環境を否定する実質的理由が何もないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式である。スノッブは環境と調和しない。たとえそこに否定の契機が何もなかったとしても、スノッブはそれをあえて否定し、形式的な対立を作り出し、その対立を楽しみ愛でる。コジェーヴがその例に挙げているのは切腹である。切腹においては、実質的には死ぬ理由が何もないにもかかわらず、名誉や規律といった形式的な価値に基づいて自殺が行われる。これが究極のスノビズムだ。このような生き方は、否定の契機がある点で、決して「動物的」ではない。だがそれはまた、歴史時代の人間的な生き方とも異なる。というのも、スノッブたちの自然との対立(たとえば切腹時の本能との対立) は、もはやいかなる意...
ボードリヤールはポストモダンの社会では、作品や商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちらでもない「シミュラークル」 という中間形態が支配的になると予測していた(注 17)。
二〇世紀とはひとことで言えば、超越的な大きな物語はすでに失われ、またそのことはだれもが知っているが、しかし、だからこそ、そのフェイクを捏造し、大きな物語の見かけを、つまりは、 生きることに意味があるという見かけ を信じなければならなかった時代である。言い換えれば、中途半端にポストモダン的だった時代なのだ。生は無意味だが、無意味であるがゆえに生きる、という逆説は、いまはもう重みを失ってしまったが、過ぎ去った冷戦時代にはきわめて切迫した考え方だったにちがいない。
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